こんにちは。所長です。
元安芸高田市の市長だった
石丸さんが東京都知事選に出馬して、
現職の小池百合子さんに負けましたね。
で、
それはまあ、
東京都の人は小池さんの方が
いいなーって思った人が
多かったんだなー
っていう風に思います。
ただ、
僕がちょっと気になったのが、
分断が起こっている事が
なにより気がかりでした。
批判をしたいわけでもなく、
心配になりました。
知事選が終わった後の
テレビのインタビューについて
そのやりとりが話題になっています。
石丸さんの主張や考えに異議を唱える人と
賛同する人と、
態度や喋り方について
疑問を呈する人がいました。
例えば、
実際にインタビューした元アイドルの方は、
怖かったSNS上で吐露しています。
これに対して、
あんな態度をとった人はダメだとか
パワハラだーとか
そのような事を言う人と、
質問内容からして非常に不勉強で、
なおかつ選挙が終わったあとで
政策に対する質問をしているので
政治を扱う番組として不適切とか、
質問の前提がおかしいから訂正をしただけだとか
そういう話になっていました。
それらが良いか悪いかというよりかは、
問題はもっと別のところにあると思います。
それは分断です。
上記の事についてもそうですし、
石丸批判についてまとめてある記事は
そのほとんどが感情論でした。
そちらへの批判や石丸を推している人というのは
その多くが構造的な論理でした。
感情という主観的な判断基準で行けば
石丸さんに返答は厳しく怖いです。
論理という客観的な判断基準で行けば
至極真っ当で真摯でした。
この判断基準が違う人たちが
一堂に会すると
もう対話が成立しない。
そして、
お互いの主張を納得はしなくてもいいから
理解して尊重しなければ
対話は出来ないと思います。
ところが、
お互いがお互いの揚げ足をとったり、
自らの正当性を主張するばかりで
リスペクトに欠けると思いました。
石丸さんにもその態度は見えていて、
日本を外から観ていた彼は、
日本の状況を東京一極集中という
構造上の欠陥だと指摘していました。
東京都は、
地方から若い人材を
吸い上げることによって生まれた
人口バブルによるものであり、
これが地方を疲弊させ、
日本という大船の大穴になる。
というのが、
彼の見えている景色だと思います。
なので、
アメリカのシリコンバレーのように、
東京都に一極集中する必要のないものは、
他に分散させることで
この問題解決の糸口を提案してるようでした。
というのが、
客観的事実をベースにした
構造思考であり、論理です。
しかし、
8割近くの人は
感情や共感できるかどうか
ということをベースに意思決定をすると
言われています。
なので、
そんな論理的な構造思考で
あれこれ言われても、
意味が分からないし、
質問(感情論)にちゃんと答えていないやつ
という風に見えてしまいます。
こうして、
お互いの事がわからなくなり、
対話をしなくなるのが
分断です。
それがまさに可視化されたのが
東京都知事選だと思います。
人の判断基準は
大きく分けて3つで
①感情、共感
②論理、再現性
③革新、新しさ
といった具合です。
これらが複雑な割合になって
人は物事を判断しますが、
①の人が圧倒的に多いわけです。
そして、
論理性を重視して
建設的な議論をする人には、
感情論を振りかざす人との間に
壁を感じます。
それは橘玲さんが指摘している
バカの壁というものです。
これは②の人には見えていて
①の人には見えていません。
そして、
それと同時に、
①の人からしたら、
②の人は、わかってくれない。話が通じない。
話を聞いてくれない。ひどい。
というように、
感情の壁というものがあり、
それが②の人には見えていません。
インタビューをする人も
そういった感じで、
石丸さんに、
女性と高齢者から票が獲得できていないが、
そこについて今後のどのように考えるか?
という質問をしていました。
その質問に対して、
石丸さんはどの範囲で?と、
質問の内容を再定義しようとする一幕がありました。
で、
インタビューをした人は
これからの選挙全般でみたいな感じだったんですが、
このインタビューをした人は
感情論者なんです。
ところが、
石丸さんは構造的な論理派なので、
都知事選の結果を踏まえて、
女性・高齢者から票を集めるためにはどうすればよいか?
という質問なら、
次の都知事選について、
どうやってその層から票を獲得するか?
ということになります。
なぜなら、
都知事選の結果を参照しているので、
国政や別の地方市長や県長、市議となると、
サンプルとして不適切だからです。
これが感情論と論理的な思考の違いです。
同じ質問であっても、
これがけ話が食い違うわけです。
そもそも、
おおよそ、
議論や討論と呼ばれるものというのは、
まずは定義から入ります。
かつ丼が一番か否か?
という議論をする場合は、
何をもって一番とするのか?
ということを最初に定義しないと、
かつ丼が一番かどうかは決められません。
話が前に進みません。
なので、
まずは何が一番たらしめるのか?
という要素を定義します。
これが議論の第一歩です。
そしてそれは、
その場に居合わせた人と
その場で行うのが基本です。
石丸構文と揶揄されている
この定義というのは、
議論をするうえでの基本の作法であり、
最初の一歩です。
これをせずに話をすると
話が堂々巡りになってしまいます。
例えば、
ふかわりょうさんのポストで
石丸さんってサブウェイで注文できるかな?と、
揶揄したものがバズっています。
これが分断を象徴しています。
感情論者にとっては、
失礼な態度をとる石丸さんには無理!
いちいち定義だとか逆質問だとかで
話がかみ合わないやつには無理。
と、思うでしょう。
そして、
論理的な思考をする人からすれば、
議論と日常会話は別です。
サブウェイでの注文は
日常会話で、議論ではないので、
そもそも定義をする必要がありません。
なので、
サブウェイ注文できるかな?
というポストに共感する人は
感情的に考えて、
あんな人には無理だろうなと思います。
サブウェイの注文は
日常会話だから定義は必要ない。
むしろ店員さんには
丁寧な対応をした方が
上客扱いしてもらえる可能性が上がるので、
可能な限り上品に注文をすべき。
と、論理的に考えます。
ふかわりょうさんは
それを分かったうえで、
どちらの方が数が多いかを見極めて
ギャグで言っているとは思いますが。
僕が本屋さんは無くならない方がいい。
と、
以前のブログで主張したように、
お互いの価値観や考え方が違うのは
あって当たり前だし、
分かり合えないのも良いと思います。
しかし、
これでは分断だ。
そして、
この分断は石丸さんが
起こしたものではなく、
すでに分断されていたものが
選挙とその後のリアクションによって
可視化されたものであって、
形骸化され、元に戻せないくらいに
なっちゃったのだと
想起させるほどの溝に感じました。
ちなみに、
このような事になることは
石丸さんが安芸高田市で
市長をやっていた頃から知っている人は
もうすでにわかっていました。
彼がやったのは、
議会とマスメディアを炎上させ、
みんなが思わず想いを吐露してしまう
場面を作り上げ、
分断を可視化させてきました。
それを東京でもやったわけです。
彼の目的は分断ではありません。
なぜなら、
もうすでに、
分断されています。
では、何が目的か?
それはこの後、
彼がどうするのかによって
評価できると思います。
ちなみに、話は変わりますが、
イェール大学の成田さんも
指摘している点ですが、
議論をしている場面を
テレビ放送しても
ほとんどの視聴者にとっては
暗号のようなもので
何を言っているのかわかりません。
なので、
視聴者と論理的な議論をしている人の
間に立って、
両方を行き来しながら
議論を回していけるような
専門家が必要だと思いました。
今回の事で行けば、
石丸構文と揶揄するのではなく、
マスゴミと下に見るのではなく、
石丸さんは議論がしたいから、
定義を最初にしないといけない。
そうしないと彼は議論が出来ないんだ。
かつ丼だってそうだろう?
といって、
両者の間を行き来する必要があります。
そういったキュレーターが
今のテレビには求められているように思います。
ちなみに、
アベプラのアナウンサーの
平石さんはそれが天才的に上手です。
石丸さんに対して、
定義や論理、問題点や質問、
前提条件を整理しながら
一問一答形式で進めています。
そしてその後に次ぐ続く人も
(例えばパックン)
同じように、
理路整然と一問一答をしています。
めちゃくちゃスムーズです。
あれが議論です。
なので、
大手のマスメディアには
平石さんのような人が
もっとたくさんいればいいのになぁと
思いました。
お互いの主義や主張の
折り合いを付けることはできなくても、
相手に言っていることを
理解したり、共感したうえで、
まあ、お前はな?そうだろうね。
くらいの距離が取れれば
一番いいんだよなぁと思うわけです。
コメントをお書きください