算数の問題でさー

こんにちは。所長です。

 

算数の問題で、

面白い問題を見つけたので

共有しますね

 

 

えんぴつを2人にくばります。

1人に7本ずつ くばると、

何本いりますか?

 

という問題です。

 

7×2=14

 

なので、

14本が正解です。

 

で、

これにたいして、

2×7=14

という計算式を描いた娘さんが

バツになったことで、

その父親がXで文句を言っていました。

 

それから、

別のやつもあって、

もう一つ紹介します。

 

長いすが4つあります。

1つのいすに3人ずつ すわれます。

みんなで何人すわれますか?

 

これにたいして、

4×3=12人

という答えを書いて

計算式がバツで

答の12人だけマルになっています。

 

これにも苦言を呈しています。

 

で、

これにたいして、

こんな教え方混乱するだけでは?

 

と、コメントされております。

 

いやはや。

みなさん。

困りましたね。

 

 

日本の義務教育の敗北です。

 

何がいけないのか

僕の考えを解説します。

 

まず、

そもそも、

学問とは何か?

教育とは何か?

 

ここから説明します。

 

学問というものは、

宗教から派生したものが多いです。

 

例えば、

世界宗教の一つである

キリスト教については、

かなりの数の数学者や

科学者を輩出しています。

 

よく超常現象とか

超能力者を

科学的におかしいとか

物理法則を無視している

 

などと言う人がいますが、

逆です。

 

キリストの教えでは、

創造主というのは

7日間でこの世界を作っています。

 

7日でかなり精巧に

細かく丁寧に作っています。

 

その証拠に、

 

いつも同じように

りんごが木から落ちるのは

創造主が法則性をもって

この世界を作ったからであり、

その法則を正しく理解することは

創造主を、キリストを理解する事です。

 

敬虔なクリスチャンだった

ニュートンはそのように考えたとされています。

 

あらゆる自然科学というものは、

数学というものは、

創造主が現代に残した法則であり、

世界のルールなのです。

 

それを解き明かし、

理解し、広める事こそ、

敬虔なクリスチャンにとって

重要だったのでしょう。

 

なので、

E=mc2のように、

フェルマーの最終定理のように、

基本的には、

数学や科学や天文学などは

 

美しい。

 

これが基本です。

 

例えば、

1.0+2.1-1.1=2.0です。

2ではありません。

2.0です。

 

これは絶対数を揃える事で、

式が美しいからです。

 

地動説だって、

元はといえば、

天動説の図式が

美しくないことに端を発しています。

 

黄金比だって、

地動説だって、

フェルマーの最終定理にしても、

どれもそう。

 

共通点は美しいということ。

 

それは、

創造主が作ったこの世界が

美しいからです。

 

だから、

全ての法則は美しくてしかるべき。

 

天動説の法則を見てみて下さい。

ひどいものです。

はっきりいって、美しくない。

 

それが大事なのです。

 

なので、

算数や数学というものは、

基本的には、

美しいものです。

 

さて、

改めて算数の問題を見てみましょう。

 

 

えんぴつを2人にくばります。

1人に7本ずつ くばると、

何本いりますか?

 

 

本数を問われているので、

数学の法則にのっとり、

7×2というのが正しい。

 

世界中のどこででも通用する

正さ、美しさこそ数学である。

(これは僕の言葉じゃないけどそういう雰囲気を出しておきます。)

 

というわけで、

そもそも算数というものは

美しいものです。

 

というのも、

学問というものは美しいからです。

 

はい。

もう一度言います。

学問とは美しい。

 

本数を問われているのに

2人×7本が14本というのは

美しくない。

 

これが答です。

 

次に、

教育というものは、何か?

ということですが。

 

こういった理不尽にも

感じるような事を

上から下に押さえつけて

訳の分からない事を

学習させることが本質です。

 

そもそも学校という施設は、

上から言われたことを

黙ってやる人間を作る工場です。

 

そして、

長時間労働に耐えうるだけの

肉体に鍛える場所でもあります。

 

それが体育であり給食です。

 

給食のない小学校はありません。

なぜなら、スキキライせずに

一定数を一定時間で成長に合わせて、

必要な栄養を摂取させながら

身体を作ることが目的だからです。

 

貧困問題へのアンサーではありません。

 

それが、学校です。

義務教育とはそういうものです。

 

また、

中卒、高卒者への

学校求人というものは、

工場勤務や現場仕事が多いです。

 

なぜなら、

今の学校という仕組みは、

富国強兵と経済成長の為の

労働者確保が元であり、

その為の教育だからです。

 

例えば、

チャイムが鳴る前に

持ち場につき、

上の人から指示されたことを行う。

 

これができるということは、

工場勤務や現場仕事において

必要な資質です。

 

それを養うのが授業です。

 

個人の考えや個性というものは

頭のいい上位の人だけが持ち合わせればよい。

 

そしてその上位の人だけが、

上級学校へ進み、

個人の考えや個性を活かす。

 

それが今の義務教育の仕組みだと

そういう風に思っているのが

僕の考えです。

 

まとめると、

そもそも学問というものは美しくないとダメ。

それを教える学校というのは、

美しいかどうかという

理不尽な内容を教えることで、

言うことを聞く人材をつくる場である。

 

また、

理不尽な事でも、

上から言われた事を

素直にやるという資質を

効率よく養うために

テストを行って点数で競わせる。

 

以上の事から、

算数の計算式で

7×2でも

2×7でも

どっちでも答が14だから

別にいいのでは?

 

というのは、

 

根本的な間違いである。

 

2×7でもいいじゃないか!

と、思うことと、

2×7と書いてしまうことは違う。

 

板前さんの格言に

皿洗いで終わりたくないから

皿洗いを一生懸命やる

というものがあります。

 

個性、個人を尊重する時代ですが、

それは最低限をクリアした人間にのみ

許される特権のようなものだと

つくづく思うのです。