こんにちは。所長です。
最近、
非合理的な事を
合理的に説明しようとしたけど、
失敗したことがあります。
失敗の要因として、
非合理性の興味や関心事を
合理的に説明しようとした点です。
不思議なことに、
非合理性の事というのは
合理的に説明すると
説明している側が冷めて
どうでもよくなる。
例えば、
サッカーを観に行ったんですが
スタジアムの熱気や臨場感、
ゴールした瞬間の歓喜、
残念なプレーや負けた時の絶望というのは
合理的には説明ができません。
どちらかといえば、
合理的に物事を考える僕ですが、
スタジアムで応援している
チームが得点すると、
立ち上がって喜びますし、
隣の知らない人とも
喜びを分かち合えます。
不思議ですねぇ
で、
それを
合理的に説明しなさいと言われれば
多分無理だと思います。
あるいは、
僕は居場所を作れる人になりたいと
思って仕事をしてきました。
それに必要そうな経験値は
転職を繰り返すことで、
ピースを集めてきました。
転職の面接のたびに、
僕の目標とか夢を説明しますが
共感されたり納得されたことはありません。
マイナビという
僕が、
世界で唯一、
嫌いな会社の人事の人には
笑われましたが、
それ以外ではよくわからんというか
納得してもらえた感じがない。
それはたぶん、
面接という合理的な場において、
非合理性の強い僕の目標というのは、
理解されにくいだろうし、
それを説明している僕自身も
非合理性を合理的に説明する中で
熱が冷めたんだと思います。
なんとなく、
非合理性は頑張れるけど説明がつかない
合理性は説明はできるけど頑張れない
みたいな構図だと思っています。
なので、
儲かるからやる仕事って
夢中になれないんですよね。
就職活動とかでも、
自分の好きな事とかやりたいこと、
興味あることを軸に考えなさい!
みたいなことって
あると思います。
それって結局、
最後の最後で
頑張れるかどうか?
みたいな部分で非合理性が
必要になるからだと思います。
ただし、
それを合理的に進められる能力がなければ
合理的な面接という場を
突破できないのかなとも
思ったりします。
やるとすれば、
自分の目標や夢の達成、
興味ある事について
自分の能力や経験を
活かすことができるということを
具体的に、定量的に説明しなければ
いけなかったんだろうなぁと
今になって思います。
非合理性のあることを
合理的に進める。
ということが、
なんとなく、
感覚的に必要な事だと
思っています。
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