こんにちは。所長です。
最近、原作改変において
原作者側と製作者側で
もめているというのをよく見ます。
さて、
この問題について
今日はいつものように勝手なことを
言おうと思っています。
まず、
そもそも、
原作改変は問題なのか?
という点から考えていきます。
原作と言えば、
小説や漫画が多いわけですが、
それをドラマやアニメのように
映像化するにあたり、
描かなければならない点が
いくつかでてきます。
また、
小説や漫画では表現できても、
映像化すると表現しにくい点もあります。
例えば、
不思議の国のアリスでは、
シャムネコのシッポから徐々に薄くなり
おしりから胴体と薄くなって消えていき、
最後にはニタニタ笑顔だけが残って消えた。
という表現があります。
これを映像化すると
どうでしょう??
顔は消えているのに
表情だけ残るって
どうやって表現しますか?
表現できなくないですよね?
なので、
ここは改変する必要があります。
あるいは、
初代ガンダムのガンダムは
本当は灰色のつもりでしたが、
それでは地味すぎてプラモデルが売れないので
カラーリングが施されて
現在のような白を基調とした
三原色でカッコいい感じになっています。
さらに、
ハイキュー!!では、
サーブの前に前かがみになって
ボールを何度かバウンドさせてから
サーブを打つ選手がいます。
これは漫画だから違和感はないですが、
映像化すると、
前かがみになってボールをバウンドさせて
体制を起こしてからサーブを打ちます。
漫画だから違和感のなかったシーンも
映像化するとつじつまが合わないシーンもあります。
このように、
原作という紙面から
映像化するにあたって
改変というものは
必ず発生します。
この辺りについては
みなさんもやむなしと
思うのではないでしょうか?
なので、
改変=悪
というのはちょっと違うと思います。
では、
なにが問題として発生する事情なのか、
どういった条件で問題になるのか。
そこに言及していきます。
結論から言えば、
言語の違いになります。
扱っている言語・思想・志向が違えば、
同じような事を言っても
会話が成立しないんです。
なので、こじれるのだろうと思います。
そもそも、
原作者という生き物は
我々とは全く違う人種です。
彼ら彼女らは、
自分の内側にある何か、
我々一般人にはない何かがあって、
それを表現する生き物です。
創造性があり、
作品を通して自己を表現する人です。
それと比較して、
映像化する人たちというのは
原作を再現する人たちです。
表現と再現は全くの別物。
特に、
テレビ局で働く人は
高学歴の人が多く、秀才が多いです。
秀才とは天才になり切れない人ではなく、
物事に再現性や妥当性、効率を求めます。
なので、
原作通りに表現すれば
採算が取れないとか
視聴者に受けないとか
上司が納得しないとか
そういった点を重視します。
そんな人が天才型の原作者と
いくら話をしたところで、
天才の言っていることはわかりません。
もし、
天才の言っていることが
僕らにきちんと理解できるのであれば、
天才は音楽や物書きとして
わざわざ表現しないだろうと
僕は思います。
かつて、
ゲーテは彼の作者への最高のサービスは
期待を裏切ることだと言いました。
これは、
読者の期待に応えるということは、
凡夫のすることであり、
天才は常に世の何はないもの、
自分の内側にある何かを
世界に向けて表現する生き物である。
ということ明確にしています。
なので、
原作改変というのは、
天才が生み出したものを
一般大衆にわかるように、
数字が採れるように、
社内政治で勝てるように、
調整をしているにすぎない。
脚本家からすれば、
それが仕事なので、
そこを批判されれば
脚本家は必要なくなります。
天才と凡人の橋渡しを
行っているのが
秀才の脚本家という構図で
良いと思います。
こういった事情により、
原作者(天才)も
脚本家(秀才)も
作品を世に届けたい。
というゴールは同じでも
手段が変わってくるわけです。
だから、
映像化するということには合意しても
後々になって問題が発生します。
原作者は表現者であり、
1つ1つの作品に
魂と自分の人生をのせています。
そこに合理性や採算性などはなく、
あくまで表現をしているにすぎない。
脚本家とは違って、
自分の思想や魂を表現しているのです。
そこの差は大きいと思います。
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